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新潟地方裁判所 平成2年(ワ)122号 判決

原告

甲野花子

甲野一郎

乙山良子

丙川弘子

丁谷正子

右原告ら訴訟代理人弁護士

中村周而

金子修

被告

社会福祉法人新潟市社会事業協会

右代表者理事

高橋助七

右訴訟代理人弁護士

伴昭彦

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  原告の請求

被告は、原告甲野花子に対して金三〇一八万七二〇〇円、同甲野一郎に対して金七二七万一八〇〇円、同乙山良子に対して金七二七万一八〇〇円、同丙川弘子に対して金七二七万一八〇〇円、同丁谷正子に対して金七二七万一八〇〇円及び右各金員に対するいずれも平成二年三月三〇日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、脳出血により意識障害状態にあった患者が、被告の設置経営する病院の病室の窓から転落して死亡したのは、被告の履行補助者でありかつ被用者である主治医あるいは担当看護婦の監視・看護が不十分であったためであるとして、右患者の相続人である原告らが被告に対し、債務不履行責任ならびに不法行為責任に基づく損害賠償請求をした事案である。

一  前提事実

1  当事者

(一) 原告甲野花子(以下「原告花子」という。)は、訴外亡甲野太郎(以下「太郎」という。)の妻であり、その余の原告はいずれも太郎と原告花子との間の子である(争いがない)。

(二) 被告は、特定の社会福祉事業を行う社会福祉法人であり、その社会福祉事業の一環として、信楽園病院(所在地・新潟県西有明町一番二七号、以下「本件病院」という。)の設置経営を行っている(争いがない)。

2  太郎の入院と転落事故の発生

(一) 太郎は、平成元年八月一八日、本件病院に入院し、三階の集中治療室と呼称されている病室(以下「集中治療室」という。)に入室し、このころ、本件病院との間で同人の治療を目的とする診療契約を締結した(争いがない)。

(二) 同月二一日午前二時三〇分ころ、太郎は、右集中治療室の窓から一階の庇を経て、地上に転落し(以下これを「本件事故」という。)、同月二三日午後六時一五分、本件事故による脳挫傷により死亡した(争いがない)。

二  争点

1  本件事故発生についての被告の過失の有無

(原告の主張)

(一) 過失の存在を基礎付ける太郎の病状・言動について

太郎は、本件病院に入院中、脳出血(左視床出血)と診断され、経過観察のため本件病院内の集中治療室に収容されていた。脳出血は、脳を走る血管が破れて血腫が形成され、それが周囲の脳組織を圧迫し神経症状を呈するものである。一般に、脳出血患者を始めとする脳損傷患者は様々な病的言動(情緒不安定、不適応行動、見当識障害、幻覚、言語・会話障害、感覚障害等)をとることがしばしばある。本件において太郎は、看護婦から自分のいる場所を聞かれて「陸軍でしょ。」と答えており、時や場所の見当識が障害されていた。また、本件事故発生の数時間前から点滴管を自己抜去して液をこぼしたため看護婦がシーツ交換をしたり、天井から吊るされていた点滴用のアリメポンプをいじったり、眠りながら点滴管を手繰り寄せたり、引っ張ったり、絆創膏を取ろうとしていた。本件事故当時の担当看護婦であった前山(旧姓番場)朋子(以下、「前山看護婦」という。)も、前担当看護婦からの引き継ぎの際、太郎は不穏状態に近いとの申し送りを受け、太郎の担当医師瀬賀弘行(以下「瀬賀医師」という。)から不穏状態がひどいときにはホリゾン(精神安定剤)を注射するよう指示を受けていた。また前山看護婦は、太郎のような不穏状態にある患者は点滴針や尿の管を自分で抜去するような行動を取る危険があり、それらを抜かれないように注意するよう看護婦としての教育を受けていた。これらの事実によれば、太郎の行動は病的な不穏行動であったことは明らかである。

(二) 医師及び担当看護婦の義務違反

太郎のような脳損傷患者が、病的行動として見当識を失った行動や自傷行為を行う危険性があることは文献的にも明らかであり、右(一)のとおり、実際、太郎には見当識を欠く行動を取ったり、不穏行動があった。そして、前山看護婦は、日頃の教育で患者の不穏状態が活発になった時には、ベッドから飛び下りる等の異常行動があり得ることを十分に承知しており、太郎のような不穏状態にある患者は点滴針や尿の管を自分で抜去するような行動を取る危険があり、それらを抜かれないように注意するよう看護婦としての教育を受けていたのであるから、太郎の監視については一時も目を離せる状態ではないことを十分に認識していたことが明らかである。よって、前山看護婦は太郎が本件事故の様な行動を取ることを十分に予見できたものというべきであり、監視義務違反がある。また瀬賀医師も、前山看護婦に対してかかる監視義務を尽くすよう指導すべき義務を怠った過失があることは明らかである。

(被告の主張)

(一) 過失の存在を基礎付ける事実についての認否及び反論

太郎が本件事故当時、時・場所に関する見当識障害を起こしていたこと、本件事故発生の数時間前から点滴管を自己抜去したり、天井から吊るされていたアリメポンプをいじったり、眠りながら点滴管を手繰り寄せたり、引っ張ったり、絆創膏を取ろうとしていたことは認める。しかし、太郎は右のような行動は取ってはいたものの、これらはいずれもベッド上のことで、ベッドから下りようとしたことはなかった。したがって、太郎が不穏行動を示していたとしても、それは極めて軽度なものであり、全体としては平穏に過ごしており、抑制を必要とするようなものではなかったし、ましてやベッドから下りて窓を開け、本件事故を引き起こすであろうということを予測させる徴候は全くなかった。また、前山看護婦が太郎の不穏状態が強いときにはホリゾンを注射するよう指示を受けたことはあるが、本件事故当時、右ホリゾン注射の必要が認められる状態ではなかった。

(二) 義務違反についての反論

右のような事実関係からすれば、本件事故を前山看護婦及び瀬賀医師が予見することは不可能であったというべきである。確かに、太郎が見当識を欠く行動をとっていたことは認めるが、原告の主張するところの「不穏行動」については、前述のとおり軽度のものであって、このことから直ちに太郎がベッドから離脱して本件事故を引き起こすといった事態を推測することはできない。点滴器具を抜いたり、絆創膏を外したりすることは、軽い脳障害者や、いわゆる脳疾患のない患者の入院している一般の病室でもしばしば見られるところである。また、原告は、前山看護婦は、日頃の教育で患者の不穏行動が活発になった時には、ベッドから飛び下りる等の異常行動がありうることを十分に承知していたのであり、太郎の監視については一時も目を離せる状態ではないことを十分に認識していたことは明らかであると主張しているが、「不穏状態が活発になった時」と一口で言ってもその幅は極めて広く、不穏状態の程度のいかんにかかわらずベッドから下りるというものではないのであるから、一時も目を離せない状態であるなどとはいえない。

2  1で過失が認められた場合、原告らの損害の有無及びその額

第三  争点に対する判断

一  本件事故に至る経過

本件各証拠によれば、次の事実が認められる。

1  太郎の被告病院入院までの経過

(一) 太郎は、生前「甲野電気商会」の名称で、原告花子及び同一郎(以下「原告一郎」という。)とともに、電気工事、窄井工事、配管工事等を業として行っていた(甲一一、一二の1ないし3、原告花子)。

(二) 太郎は、昭和六一年八月二九日から同年九月六日まで、脳梗塞の治療のため本件病院に入院したが、退院後、本件事故に至るまで、特に後遺症等の異常は認められなかった(乙一、原告花子)。

(三) 平成元年八月一一日午前一一時一五分ころ、太郎は、原告一郎の運転する普通貨物自動車に同乗していたところ、訴外野上弥代江運転の普通乗用自動車に側面から衝突された。その後、同日午後九時ころ、太郎、原告一郎及び右野上らが右事故について話し合っていた際、太郎は野上らと口論になったので、その日は話し合いを一旦終えることとし、原告一郎は太郎を同乗させて、自宅に戻った(甲九、原告一郎)。

(四) 太郎は帰宅後、居間まで歩いて上がったが、言うことがだんだん聞き取りづらくなり、具合が悪い様子であった。そこで原告花子及び同一郎らは、太郎を訴外田沢医院まで連れて行き、田沢国一医師の診察を受けたところ、脳梗塞の疑いが認められたので、前同日午後一一時ころ、本件病院で診察を受けた(乙二、四、証人瀬賀、原告花子、原告一郎)。

(五) 瀬賀医師が太郎を診察したところ、血圧は最高が一九二、最低が九〇、脈拍は七二、傾眠傾向ありと認められた。意識レベルは、舌がもつれながらも自分の生年月日が言え、話しかければ「はい」、「いいえ」で答えるが、ボールペンを見せてこれは何かと問うと、「正直言ってわからない」と答える状態であった。また、脳神経については、対光反射は迅速、感覚は、つまんだ手の左右がわからず、また痛みを感じているか否かは不明、運動は、左手の握力は正常であるが、右手の握力は低下していること、膝蓋腱反射、アキレス腱反射はいずれもマイナスであった。このような診察結果から瀬賀医師は、太郎の意識レベルは、いわゆる三三九度方式でⅠ―2(刺激しないでも覚醒している状態であるが、見当識障害がある)であること、同人には左大脳半球に梗塞があり、その結果、右側麻痺が生じた疑いがあると考え、降圧剤アダラート一〇ミリグラムを舌下投与し、併せて頭部CT検査を行った。そして、太郎は、本件病院に緊急入院することとなったが、その際、瀬賀医師は、脳血管障害が進行するおそれがあることを考えて、一般病室よりも看護の行き届く集中治療室に入院させることとした(乙二、四、証人瀬賀)。

2  入院後本件事故に至るまでの経過

(一) 太郎は、前同月一九日午前〇時一五分に集中治療室に入院したが、同室の状況は別紙「検証図面」のとおりであり、太郎は同図面の右から二番目のベッドに寝かされていた(乙二、検証の結果、弁論の全趣旨)。

(二) 太郎の前記頭部CT検査の結果は、左視床部の中内側より前外側にかけて出血が認められるとのことであったが、しばらく病状を観察することになった(乙二)。

(三) 八月一九日午前一時には、太郎の意識レベルは以前と変化は認められなかったが、同日午前一時三〇分には、太郎はベッドから起き上がろうとし、かつ、看護婦らの制止を振り切って、自動血圧計のマンシェットを剥がそうとしたため、瀬賀医師はコントミン(神経抑制剤)一本を静注した。その後、午前一〇時二〇分ころの太郎の意識レベルにも変化は認められなかった(乙二、四、証人瀬賀)。

(四) 八月二〇日午前〇時、太郎の意識レベルは、前記三三九度方式でⅡ―20(刺激すると覚醒する状態で、大きな声または体をゆさぶることにより開眼する状態)にまで低下した。そこで瀬賀医師は、夜勤看護婦に対し、今後は四回以上血圧測定をし、最高血圧が一八〇を超えたときは、アポプロン(降圧剤)一本を筋注すること、及び不穏状態時にはホリゾン(精神安定剤)一〇ミリグラムを静注するよう指示した。その後、太郎は同日午後二時三〇分には血圧計をいじったりし、同日午後四時三〇分には、意識レベルがⅠ―2まで回復し、頭痛はないこと、困っていることはないこと、感覚は左右差がないことを述べたが、午後六時には、アリメポンプに触れたり、DIV(点滴)ラインを折り曲げるなどの行動が見られ、さらに、午後九時には、自分の今いる場所を問われて、「陸軍でしょ。」と答えたりするなど、場所についての見当識が障害されていた。そして、午後一〇時には、DIVを自ら抜き去ってしまった(乙二、四、証人瀬賀、証人前山)。

(五) 八月二一日午前〇時、太郎は眠っていたものの、寝返りを打つときにDIVが気になって手繰り寄せたり、引っ張ったり、絆創膏を取ろうとするなどの行動が見られた。その後、午前〇時二〇分、前山看護婦は集中治療室の夜勤勤務を引き継いだが、午前二時ころ、太郎が点滴の絆創膏を取ろうとしたため、注意したところ同人は横を向き、眠った(乙二、証人前山)。

(六) 同日午前二時三〇分ころ、前山看護婦は、集中治療室内の患者の体位交換作業をするため、同室の隣のナースステーションにいた近藤看護婦を呼び、二人でまず患者桜井健一郎(別紙「検証図面」記載の左から二番目のベッドに寝ていた者)の体位交換を行った。次にその右隣のベッドに寝ていた患者後藤裕樹の体位交換を行おうとしたとき、その隣に寝ているはずの太郎の足が見えないのに気づき、同人のベッドの脇に行ったところ、枕元の窓が開いていることに気づいた。そして、前山看護婦が窓に近付こうとしたところ、それとほぼ同時に「ドン」という音がした。前山看護婦が窓から下を見ると、暗くてよく見えなかったので、地上に下りたところ、太郎がうなって倒れていた。太郎は直ちに担架で再び集中治療室に運ばれたが、太郎の左腕には点滴用の針と、それを固定する絆創膏がついていた(乙二、証人前山、弁論の全趣旨)。

(七) ところで、原告らは、太郎が転落したガラス窓は、右事故以前から開いていたと主張し、これを被告の過失を基礎付ける重要な事実としているので、右事実の存否につき検討する。

この点につき、原告花子は、本件事故前の八月二〇日午後七時に集中治療室に入室したときは窓が開いていたこと、この時以降、同人が入室した際にも窓は開いていた旨供述し、また、前山看護婦は、同月二一日午前〇時二〇分に引き継ぎを受けた以降、窓が閉まっているか及び施錠されているかについて確認していない旨証言し、さらに、同室内では、おむつの交換等の際に窓を開けることがある旨証言している。

しかし、右事実のみでは、なお本件事故当時窓が開いていたと推認するのは困難であり、また、窓は定期的に開閉するということはなく、おむつの交換の際に窓を開けることがあるとしても、それは大便の場合であって、太郎のように尿のみの場合に窓を開けることはないこと(証人前山)、集中治療室内は二四時間冷房等の空調が行われており、本件事故当時も冷房が入っていたこと(証人前山)及び八月という本件事故当時の気象状況から考えると、本件事故当時窓が開いていたと認定することはできないといわざるをえない。

二  過失に関する判断

1  被告の注意義務についての一般論

一般に、太郎のような脳内出血の急性期の患者については、一般の入院患者と異なり、右出血等に伴う脳の何らかの異常により、ベッド上で暴れたり、治療に支障を来すような行為に及ぶ可能性があるから、被告(及びその履行補助者ないし被用者たる主治医及び看護婦)は、杜会通念上相当な限度で当該患者の安全について配慮し、注意する法的義務があるものというべきであり、かかる義務に違反した場合には、入院契約に付随する義務違反(債務不履行構成の場合)ないし注意義務違反(不法行為構成の場合)として、それにより生じた損害を賠償する責任があるというべきである。

2  本件における注意義務違反の有無

(一) 予見可能性についての判断

(1) そこで、本件において瀬賀医師及び前山看護婦に前述した義務違反が認められるか否かを検討すると、太郎の左視床出血は、入院時と本件事故当時とでは大きな変化は認められず、病態はほぼ落ち着いていたと認められることから、一時も目を離せない状況にあったとはいえないこと(乙二、証人田中)、太郎は、本件事故に至るまで前記認定のとおりの言動を示していたものの、ベッド上で暴れたり、ベッドから下りて他所に行こうとした言動は見られなかったこと(乙二、証人前山)、本件事故直前の八月二一日午前二時に前山看護婦が太郎を観察した際には、同人は良く眠っていたこと(乙二、証人前山)、太郎は、前記認定のとおり、場所、時間等の見当識を欠いていたが、このようなオリエンテーションの障害により患者がベッドから下りたりすることはあり得ないことではないが、点滴及び尿管装置により身体の動きが物理的に抑制されている上、これらの抜去にはある程度の力ないし抜去のための手作業が必要であって、強引に抜去する場合には痛みを伴うこと(証人瀬賀、同吉本、検証の結果)に照らすと、ベッドから下りて歩き出したりするといったことは通常少ないと考えられ、これを予測するのは困難であること、太郎が寝ていたベッドには足元側を除き、柵があり、転落した窓は、その窓枠下端から床面までの高さが八二センチメートルで、その手前に高さが六五センチメートルの空調機があって(検証の結果)、これらを乗り越えて転落するといった事態は通常予測することは困難であると考えられること等からすると、瀬賀医師及び前山看護婦が、本件事故を予見し得たとは認められない。

(2) 原告らは、鑑定人吉本高志の鑑定書(以下「吉本鑑定」という。)及び同人の証言において、本件事故を予見不可能としているのは、あくまで集中治療室の窓が施錠されていたことを前提とした結論であるとして、右吉本鑑定等を理由に予見不可能との結論を導くことは出来ないと主張し、吉本証人の証言中にも、これに沿う部分があるが、本件事故当時、窓が開いていたとは認められないこと前記認定のとおりであり、また、施錠の有無は明らかではないが、瀬賀医師及び前山看護婦において太郎がベッドから下りて歩き出すことを予測するのは困難であるから、いずれにしても本件事故発生の予見可能性は認められない。

(3) また、原告らは、八月一九日午前一時二五分に太郎にコントミン一本が静注されていることから、瀬賀医師は、太郎の不穏状態がかなり強いものであることを自覚しており、本件事故を予見できたと主張する。

この点、コントミンは、患者がかなりの不穏状態にあるときに投与するものであるとの証言もあるが(証人吉本)、前記日時以降、太郎にコントミンを静注した等の事実は認められないこと(乙二)、前記認定事実を前提にするかぎり、少なくとも前山看護婦が引き継ぎを受けた八月二一日午前〇時二〇分以降、太郎にコントミンの静注を必要とするような強い不穏状態は認められないこと等からすると、右コントミン静注の事実も、前記認定を覆すに足りない。

(二) 結果回避可能性及び回避義務についての判断

(1) 本件事故について被告は予見可能性が認められないことは前記のとおりであるが、さらに結果回避可能性及び回避義務の存否についても判断することとする。

この点について原告らは、太郎が強い不穏状態にあったことは明らかであり、集中治療室への家族の入室が制限されていたことも考慮すると、太郎に対しては鎮静剤の使用や四肢抑制等の措置を採ること、さらに、看護婦が勤務体制の関係で常時太郎の動静を見守れないのであれば、同人の家族に一時付添いを求める等の万全の措置を採るべきであったとして、本件事故の発生を回避すべき義務があったと主張する。

しかしながら、当該患者の四肢を抑制したり、鎮静剤を使用する等の措置は、あくまで患者の治療という目的に対する手段の一つに過ぎず、また、四肢抑制は、患者に与える苦痛が大きいことを考えると、これらの措置を採るべきか否かの判断は、担当医師及びその命を受けた看護婦の合目的的裁量に委ねられ、かかる裁量を逸脱したと認められない限り、義務違反を論ずる余地はないところ、前記予見可能性に対する判断の項で認定したとおり、太郎は、場所、時間等の見当識を欠き、また、自分の名前や生年月日等を間違えることが度々あり、また、点滴やフォーレを抜去することはあったものの、これらの言動は、太郎と同程度の意識レベルの患者には通常見られるところであり、これらの言動から直ちに前記措置をとるべきであるとはいえず、また、本件事故直前の太郎の状態からは、かかる措置を採るべき義務が発生するような状況ではなかったと考えられること等からすれば、瀬賀医師及び前山看護婦が、前記裁量を逸脱したと認めることはできない。

(2) これに対し、吉本鑑定は、太郎の意識状態が改善するまで四肢抑制などの監視体制が必要であった可能性がある旨指摘しているが(吉本鑑定書第5項)、これはあくまで可能性の指摘にとどまるものであること、また、同鑑定人自身、本件のような場合、四肢抑制をするかどうかは、担当医師の判断により変わり得るものであり、治療という観点からの担当医師の裁量に委ねられる旨証言していることからすると、前記認定と右鑑定書の記載は矛盾するものではない。また、原告らの前記義務違反に関する主張は、このような措置がとられることが本件事故の防止にとり有用であることはいうまでもないとしても、前記認定にかかる本件事故発生時の太郎の状態をみる限り、直ちにこれらの措置を採るべき法的義務があったとまで認めることは困難であるといわざるを得ない。

第四  結論

以上のとおりであるから、争点2について判断するまでもなく、原告らの請求はいずれも理由がない。

(裁判長裁判官太田幸夫 裁判官野島香苗 裁判官内田義厚)

別紙検証図面〈省略〉

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